以下『俳優館 38』P56〜58より
これを話しますとね、ちょっと長いことになるんですが…
私は家が貧乏だったもんですから、中学へは一応入ったんですが、一学期位までしか、行かなかったんです。学費が続かなくて。で、その中学には夜間部がありまして「そこへ入って、勤めながら勉強を続けたらどうだ」と、言われて、ある保険会社の給仕をしながら夜学に通いました。
普通は、その当時夜学は四年制でしたが、その学校は昼間と同じように五年制の中学でした。でも五年間やっても昼間の中学卒業の資格は得られないんです。結局、高等学校へ行くには検定試験というものを受けて入るんです。
とにかく、五年間、その中学で勉強しまして、その間、相変わらず万年給仕で勤めていたんですけど、段々自分の人生というものに対して懐疑的になりましてね…。
会社は丸ビルの5階にあったんですけど、朝、東京駅からぞろぞろ丸ビル吸い込まれ、又夕方に丸ビルからぞろぞろ東京駅に吸い込まれて行く人達をみて「この人達は何を楽しみに働いているのか」と子供心に感じましてね、「自分は上の学校へ行く希望もないし、相変わらず万年給仕で、こき使われている。
同じ貧乏するなら自分の好きな道で」ということを考えましてね…。
その頃芝居は好きでぼつぼつ観ておりましてね。築地小劇場とか、そこから分れた、友田恭助、田村秋子さんのやってる築地座など新劇も観ていました。築地座の研究生募集の広告を見まして受けてみたんです。その頃は、いまの新劇団みたいに、とにかくTVもないし、映画に出演する機会もない、芝居だけですから…。
その芝居もせいぜい四日か五日位しか打てないんです。それもここをほんのちょっと大きくしたようなホールですから一晩の観客も大体今日お集まりの人数位しかいなかったんです。ですから勿論新劇だけでは食べて行けない。
今の新劇団なんていうのは三十人募集すると三千人位集まるという時代ですけど、当時は研究生も十人かそこら来れば良い方で、それも大概、大学生が学校へ行きながら芝居の実地を勉強、研究したいというので、家庭にゆとりのある人達が来たんです。
私なんてほんとの「雑魚のとと交り」でその研究所に入ったんです。初めは会社の仕事と二足のわらじでやっていたんですけど、そろそろ舞台に駆り出されるようになると、ごまかして会社も休めなくなりまして、会社をやめました。
ですけど、生活は保証されているわけではありませんので、家では食うことだけ何とかしてくれましたが、小遣い、電車賃がなくて、よく歩いたりしました。
そんなことがそもそも新劇へ入るきっかけだったんですがね、その後何度か挫折しそうになりましたけど、まあ何となく先生方や先輩方から「もう少し頑張れ!」てなことを言われて、生活の面倒もみて頂いたりしながらどうやらやって来ました。
その後どうやらめどがつくようになったのは民放が出来まして…TVはまだでしたが…ラジオ・ドラマなんかかがさかんに新劇の連中も使うようになったので、それで若干収入が得られるようになったのです。またTVが出来ましてからは可成の収入が(笑)…それで結婚して、子供が出来て何とかやれるようになったんです。
黒沢さんの『七人の侍』は黒沢さんが粘りに粘っていつ完成するか判らなかったので東宝もなかなか出演料も払ってくれない。一年間もそれに拘束されているものですから、生活費もなく、どうしようもなくて質屋通いをしたこともありました。
まあ、しかし、この映画が完成してお誉めを頂いたりしたもんですから、それでいくらか株が上がったというんですか、映画の方からもあっちこっちから口がかかり、まあどうやら今日まで来たようなわけです。
ざっとあらましを言うとそんなことです。
以上『俳優館 38』P56〜58より